備忘録

資質

必要なのは経歴ではなく、資質。

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ごまかしをしてまで得るものなどなにもない

ごまかしをしてまで得るものなどなにもない。今、生活を正さないと後からじわじわと身体が弱っていくんだろう。何事も準備だ。準備に準備を重ねていかなければ。

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眼を背けることは

不条理、理不尽、違和感を感じることから眼を背けることは自分を自分たらしめていることに接近している証拠なのかも知れない。

まだまだ、もう少し閉じていようと思う。

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涙に応えなければならないのだ。

涙を頂いたことをさっきまで忘れていた。大切な人の涙に応えることが東京に来たことの一つの意味ではなかったか。

私は自分に本当の意味での自信を持ち、帰らなければならない。今、私の自信は過信でしかないのだから。

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私の代わりは

綱をしっかりと握らなければ波にのまれてしまうのだ。私の代わりはだれもいないのだ。どうして世界はこんなにも明るさを否定してしまうのか。閉じている分開けば見えるものはあるかしら。例えも思いつかないほど深い場所に私は佇んでいるのかもしれない。だまって鳥葬してほしい。乾いて枯れて朽ちてゆくものに私はなりたいのだから。

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規則正しい生活

自分を磨いて自分を創るルーティンを確立しなければならないなぁと思っている。ここ最近考えているがなかなか生活に根付かない。

規則正しい生活をまずは始めなければならないだろうか。

思考をブラッシュアップしてゆくように意識しなければならないと思っている。

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待つこと

人とかかわることは待つことである。そして期待しないことである。自分の中で他人を飼わないことなのだ。いつの間にか他人を自分の中で飼育していないだろうか。好きなように他人を振り回していないだろうか。それだけが気がかりだ。

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強度

人任せにせず、何でも自分で動いて動いて動いていくことが必要だなぁ。

文字で伝えられるものよりも、口伝によって伝承されてきたもののほうが強度が強いということに、最近になってようやく気がついた。人々の中をつたって脈々と歴史を重ねていくことで生まれる強度は、個人が生み出せるレベルの強度をはるかに超えている。ここに創り手の意図を越えたものづくり、ことづくりのヒントが隠されてはいないだろうか。

強度とは自分で自覚することで生まれてゆくものであると同時に自分の意図しないところで積み重ねられるものなのだ。

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気になる書家―2

気になる書家、教育者といったほうが正しいのかもしれないがとにかく気になっている人がいる。昭和31年、森田子龍が発行していた書教育という雑誌がある。その雑誌を読んでいると、その人の書教育論がいくつか載せられており、読んでいくととても興味深い。童書教育ともいくつかつながりがありとてもおもしろい。これを機に少しこの気になる人の書教育論をまとめなければならないと思っている。

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否定、批判、批評。

生活している中で否定と批判を区別していないなと感じることがある。思うのは否定という行為が生むものはあるのだろうかという事である。否定とは、思考を停止させるだけのものではないか。批判とは新たな考えを提示する上での否定である。否定と批判の区別を自覚して他者と関わっていくことで新たな考えが生まれるのだと思う。

批評という言葉がある。批評の本質とはなんであるだろうか、それは批評された者がある高みへと歩みだす梯子を用意してあげることである。そして、その梯子は批評された者に関わらず、その批評を聞いた者であれば登れるものではないだろうか。

否定、批判、批評。価値観を振るわせられた事に対すること、ものに向けての反射行為であるが、その反射行為を受け取った側に何らかの恩恵が与えられなければ、他者と高め合うということの意義そのものが失われ、人は生命力を失っていくのではないだろうか。

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