学校教育関係

個性

個性=人の見る眼のことをいうのだろうか。教師は個性という言い方によって自分は関係ないと言い出しているのだろうか。

個性が必要なのは生きる上での自立を求めているからなのではないか。磨かれない個性は野生である。そして個性とは本来自分自身で磨くものなのだと思う。他者に磨かれた個性は他者にとっての個性でしかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

芸術を通して考える力

芸術を通して考える力を育成する方法論を学ばねばならないと思っている。それは自分自身の考える力を高めるとともに児童・生徒に考える力をつけてもらいたいという願いでもある。方法論は例えば大ざっぱに言ってしまえば、ストーリーボードなど子どもの想像力を喚起するものでありたいと思っている。

考える力のあり方は教科によってまちまちで全く方向性が違ったものであるだろうけれども、そういった方向性を統一というか包括する考える力を芸術教育で育むことはできないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師になるために

人間性を磨くこと。

生徒は、先生に対して期待を常に持っている。

支援することは評価しているということ。評価するための授業になってはならない。評価のための評価ではなく、支援・指導の為の評価を考える。

変化を与える授業。見通しを与える授業。

学習プリント・教師の力量・考え方・教師のキャラクター

児童・生徒の理解、観察・様子を見る。授業以外の時間の人間関係をみる。言葉ではなく行動で引っ張る教師になる。

行事を通して子どもを成長させ、一年後、二年後を見据えた生徒に育てる。子どもを色分けする。

自分の売り物を本当の意味で磨くこと。

生徒に対しての引き出しを持つ。引き出しとは、体験や経験のこと。

本当に生徒に対しての価値をもつ先生になることが大切。

ABCの評価はABを基礎基本を定着させるための評価として考える。

自己評価は学び方を学ぶことにつなげるようにする。気づき、意識させることを目的に。

教育実習に関して。学生気分ではいけない。(先生としての底が見えてしまってはダメ。)毅然とした態度。生徒理解・授業力。教師は担任を持ってこそ!

子どもたちのことが好きなことが大切。甘いのはダメ。情熱を持ってやること。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

光に招く

子どもと関わりすぎることで生まれなくなってしまうものがあるとすれば、子どもが自ら考え、悩む力であるように思う。簡単に答えを渡すことで、子どもたちの中に答えが単一なものに限定されてしまうことが考えられる。教え与えるということは思考停止を招きかねないという両刃の剣なのかもしれない。

今日も子どもたちは一日を自分と他者の双方に振り分け、精一杯生きている。学ぶことは机に突っ伏しているだけのことではない。身体の全感覚を総動員して生きることに精一杯になることなのだと思う。くじけてることはあったとしても立ち上がらなければならないのだ。立ち上がった時に学びはより生きる力として輝き始めるのだ。

生きることに憶病になるな。学ぶことに憶病になるな。

私は私を光に招くことはできるだろうか。

光は声を持たないから 光は声で人を呼ばない 光は光で人を招く  高見順詩

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高らかに飛翔する子どもを育てる

授業準備はいかに楽するのではなく、いかに尽くすかにかかっている。授業は子どもが目立つ場所なのだ。研究授業だろうが、普段の授業だろうが、子どもが子どもらしくいられない場を教師は作ってはいけない。そして授業は先を見据えた何かのために行われるものであるという認識に立つと同時に、その時にしか学べない一回性を大切にして行われるべきものなのではないか。授業とは本来神聖なものなのだ。授業は教師と子ども以外の他人は触れられない気を発するような意識の高まりを醸し出す場であるべきなのだ。

高らかに飛翔する子どもを育てるにはその土台を教師が誠心誠意尽くして作らなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国語

作者という概念の疑義。作品を構成する言葉は作者のものである以前に長い歴史を背負った社会の共同財産。作者はその財産を使用して作品を織り上げる機能に過ぎないのではなかろうか。国語の入試問題で作者が出題者の意図した解答を予想していなかったという。これは作者が作品の意味の権威者ではないことを証明しているのではないか。

国語のテストが苦手だった私が国語の勉強をいまさらしているのだから面白いもので。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学び

大学における学生の学習意識とは一体どのようなものであることが望ましいのか。

まずは学問の入口に立つということと、学問の扉を開いて歩みだすことの違いについて認識する必要があるのではないかと思う。高校までの学びと大学における学びの違いは、与えられる学びか、自ら得ようとする学びか、といった違いであるように思う。大学での損をしない学習とは、学習の主体である自分自身をいかに能動的にできるか、受動で終わらせないかにかかっているのではないだろうか。

基礎基本といったものをいかにおさえる中で、先端を走ろうとする意欲を自らかきたてて走ることができるかに大学で学ぶという意味が本来の意味で見えてくるような気がするのである。

高度な専門教育の刺激を与えられることに喜びを感じる学生が本来、大学という場にふさわしい学生なのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

総合学習

総合学習について考えてみる。学力の向上というものが取り上げられ、すこし光が当たらなくなった部分であるように思う。総合学習ははかりにかけて測定できる学力といったものとは違い、教育の根っこになる子ども自身の主体的な学びを促進できるものではないか。現場の先生方は指導書といったマニュアルがないせいか少し毛嫌いする傾向があるようであるが、子どもの心をひきつけるテーマが見つかった場合、これ以上学ぶことの喜びを感じられる学習はないのではないか。教科と通しての知識が学力として価値あるものと考えられることに反対するわけではない。しかしそれのみに教育の舵がきられるとするならば、それはそれで寂しい。総合学習を学校教育の根幹としていくような考えが現場の先生方にはもとめられているのではないかと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自ら学びを欲して課題を狩りに行く

スパルタ先生になろう。真摯に教科に関して私自身が向き合い、厳しくも緩やかに児童・生徒を受け入れる柔軟さを併せ持つ教師になろう。

授業とは、いかに教師が楽をするかにかかっていると聴く。これは教師が手を抜いているのではなく、児童・生徒が自主的に、主体的に活動することによって教師のよけいな介入が不必要という意味である。教師は児童・生徒にとって壁であると思う。児童・生徒が教師という壁と向き合いつつ、越えていこうとする動きの中で生まれるものがあるのではないか。教師は学び方を教えることに徹すれば、子どもは自ずから学び始めるのかも知れない。教師の学びを与えることのみに執着する指導よりも、子どもが自ら学びを欲して課題を狩りに行くような姿勢を教師は育てるべきなのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育の本質

キーコンピテンシーに関してこの頃考えることがある。本当の学力とは一体何なのか。PISA型学力の本質的な意義とは一体何なのか。少しまとまった考えを形にすることが出来たら良い機会に発表したいと考えているけれども、個人的にPISA型学力の本質とは人との関わりの中で発揮される力のことなのではないかと思っている。人と関わり合うことで生まれる創造性がPISA型学力の本来求める経済発展の力となるからである。昨今、学力について色々な教科で話し合われることが多い。その教科において育まれる学力というものが、経済社会に還元されるのだという前提で話し合われている。果たして経済社会においてのみ還元される力のみが学力なのだろうか。学力とはもっと複合的で単一な教科だけでのみ育まれるものではないのではないか。単一ではなく、様々な教科が有機的に関連し合うことで、本当の学力が生み出されるのではないかと思う。

学力に関してばかり考えていると最近は教育力についても考えることが多くなっている。

「やっぱり人を見下すのはいいね。」

先週朝、校内を歩いていると修学旅行に向かうと思われるバスの中の生徒が道路に立っている友達と思われる生徒に向かって言った一言だ。

私は愕然とした。中学受験を通して、いわゆるお勉強は出来る生徒だろうけれども、あまりにも軽すぎる言葉だったと思う。気がゆるんでいたのかも知れない。でももしかするとこれは一種こういった生徒を作り上げてきた学校がもつ、国が持つ学力観・教育観の結晶なのかも知れない。その生徒自身が、学校以外の場でどんな教育を受け、どんな事を考えて生きているのかそれはわからない。だか、一つ言えるのは、教育というのは、学力のみを上げる為に行われるものではない。教育の本来もつ本質とは人を人として育てる事にあるのではないか。そのために学力というのは存在しているように思う。人を人として育てられなくなっている教育があるとするならば、教育とはいったい何のためにあるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)