芸術教育・鑑賞教育

創り変える

創ることについて考える。0を1にすることが創ることだとすると、1を2にも3にも増やすことは創ることではないだろうか。

表現活動の場合、増やすということではなく、創り変えるといった方が正しいだろうか、無から有を取り出す概念ではなく、もともとある形として、役割として、できあがっている素材に全く違った役割を与えてやること。見立てにも近い行為の中に、創るということの本質を広げていくものが見えてはこないだろうか。

創り変えていくこと、それは、常に視点を変化させ社会をあらゆる角度から俯瞰することの表れでもあるのではないか。

創る。己自身を創り、創り変えることが表現の意味なのだと思う。

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教科書

自分だけの書道教科書を創ることはできないか。理想の書道教科書のようなものはできないだろうか。

検定教科書の持っている限界性のようなものを最近感じることがある。作り手と売り手の考えが使う側の方向を見定めているのか疑問を感じるときがある。

教科書を見ていると、内容量の限界をもっと挙げなければならないのではないかとも思うし、同時に、教科書のサイズにももっとこだわって良いのではないか。書壇の枠組みを超えた考えの中で、書道教育というものを真剣に考えてゆくとき何か見えるものがある気がするのである。

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書道ガールズ

職場の先輩と書道ガールズを見に行く。感動した!。。。

否定的な眼で見れば言いたいことはたくさんあるけれど、多くの人が持つであろう書道に対する先入観に対して、何らかの揺さぶりをかけることが出来る映画だなと感じた。DVDで見ればいいやなんて思っていたけれど、見ている最中からDVDで見ると後悔するだろうなと思った。言いたいことを言えば、役者の方々の努力は勿論、この映画に関わった全ての人に感謝したくなるような映画だったのだ。この映画を通して書道ガールズだけではなく、書道ボーイズにも頑張って欲しいものだなぁ。私は個人的に、桜庭ななみさんのキレ顔と坂口涼太郎さんの笑顔に独特の存在感を感じ、興味をもった。

浴びるように墨と戯れた日々は一体どこに行ってしまったのだろう。

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奥村土牛

先日、山種美術館で行われていた奥村土牛の展覧会に行ってきた。

色を重ねることは対象に対する思いを重ねることなのだなあ。という気持ちをいただいた。土牛は自分の芸術をいかに大きく未完成に終わるかということを第一に考えていたらしい。芸術は未完成。宮沢賢治も同じような言葉を残している。本物は自分を本物だと思っていないだろう。完成という自己完結で自分の芸術を肯定化しようとしていないのだ。よく芸術は自己完結、自己満足だからよくわからない。という人がいるが、本当にそうなのだろうか。本当の芸術とは、他者意識が必ず働いているものではないだろうか。それを受け取る鑑賞者が芸術の他者意識を受け止めきれていなかったり、感じ取れなかったところのズレが芸術を人から遠ざけてしまっているのではないか。

土牛は描くことで自己と向き合い続け、同時に他者とも向き合っていたのかもしれない。

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ものを観るときは心を躍らせなければ

ものを観るときは心を躍らせなければ、見えるものも見えないのではないか。ものを観ることの本質は、時間を濃縮させた中に身を置くことだと思っている。自分が普段の時間の中では見えないものと出会ったとき、眼を見開いていると同時に、心を見開くことで、時間は少しずつ濃くなってゆく。

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学力観

芸術科書道によって育まれる学力とは一体何なのだろうか。書道教育が今、時代に振り回されているのではないか。PISA型の学力調査によって言語力の育成が日本の教育には必要だと言われている。しかし、芸術教育にそっくりそのまま言語力育成の視点をあてはめてしまってはいけないと最近考えるようになった。どんな時代であっても変わらない学力観がありはしないだろうか。そもそも、PISA型の学力調査が日本の教育の根幹に入り込んでしまっている現状がありはしないだろうか。フィンランドの教育を見習うことが悪いことだとは思わない。ただし、そっくりそのまま国の違い、風土の違い、歴史の違いを踏まえず、将来の経済発展の為の観点からのみで教育をみてしまうと教育の輝きが失われることにはならないだろうか。

PISA型の学力は間違いなく、学力観における黒船のような存在であるように思う。しかし日本の教育が失ってはいけないものが間違いなくある。不易流行という言葉もあるように、時代の流れを受ける教育とそうでない教育の相互が関係した教育こそが今、何十年先の未来、この時代に求められていた教育なのだという答えのような気がするのである。

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鑑賞とは

鑑賞とは対象と視点を合わせるものではないか。

さよならすることが芸術の本質だとするならば、味わい尽くしたことがきっかけとなるのか。ものを見る」ということは、「そのもの自体を見る」ということではないらしく、あらかじめある基準に当てはめてそれを解釈しているに過ぎないということらしい。

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雑想する、するする抜けていく思考-3

中学校・書写・書の鑑賞窓・鑑賞コーナー

何の気なしに打ってはみたけれども。

本当の園芸家は花を創らず、土を作っている。チェコの作家、カレル・チャペル

いい言葉やなあと思う。何というか教師になったらこういった本質を突いて、教育と関わっていきたいなあ。

広義と狭義の才能っていうものがあるように思うんです。やっぱり、区別してのばさないと何の気なしにの人生になってしまうようで。

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