写真

おめめお-2

私の中には思い出の輪郭が積み重なっている。自分を知るために創る・撮るのではないか。作品の意図も何もかもわからないままでもとにかく創り・撮り続けることしか今はないかもしれない。

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おめめお

記憶のしっぽはいつも見えていたはずなのに、向き合うことを避けていた自分。わたしは瞳を通して見守られていたのだ。撮ることと思い出すことはとても似ている事だった。

次は、のっぺらぼうを撮る。

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祖母の記憶

記憶が粗くなっていく。ノイズも含んでしまった。記憶はいつのまに、いつのまに、自分から離れていくものなのだ。祖母の記憶はいつも鮮明なものだったはずだった。何かが自分の中で変わっていくのかもしれない。

これを残したい。

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異化する

銀座で行われている吉増剛造さんの写真展を見にいった。露光が重ねられているのか、見ている映像と思考する映像が重なり合うことで生まれるイメージの広がりに表現の可能性を感じた。

資生堂ギャラリーではチェコ、暗がりの明かりを見た。二度目だったが一度目よりも深く観ることが出来た。それは現代美術の観点というよりも、やはり創ることは創る人の見える世界を示すことなのだという事がはっきりしたものだった。

原美術館へは今度行こう行こう。

異化することと向き合うことがこれからの私のやること。

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私の代わりは

綱をしっかりと握らなければ波にのまれてしまうのだ。私の代わりはだれもいないのだ。どうして世界はこんなにも明るさを否定してしまうのか。閉じている分開けば見えるものはあるかしら。例えも思いつかないほど深い場所に私は佇んでいるのかもしれない。だまって鳥葬してほしい。乾いて枯れて朽ちてゆくものに私はなりたいのだから。

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HOUSE

穴があれば入りたい。でもその穴が見つからない時、人はどうなってしまうのだろうか。

HOUSE

HOMEではない。もう私にはその場所はない。私にとってHOMEはもう存在しないのかもしれない。ただのHOUSEがそこには広がっていた。穴ではない。私にとって穴はどこにあるのだろうか。誰なのだろうか。

それを探す旅に出ようと思うのだ。いつ穴は閉じてしまったのだろうか。私が埋めてしまったのかもしれない。帰る場所はあっても、居続けていい場所ではないのだ。

見つめよう。穴は再び開くのかもしれない。いつか。やがて…。

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宿るもの

母は昔どんな子供だったのだろうか。一人の女の子から一人の女性へ、そして母へとなってゆく時間をどのように過ごしてきたのだろうか。

実家に戻り母を写真に撮る中で考えた。

生きた時間は手に、眼に、身体のいたる所に宿るのだと思う。忘れてはならない。

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形として写真を見ること

撮ることの表層を本質にするのはプリントすることであるけれども、それを昨日大量にしてみて感じたのは、なぜこれを撮ったのかという感触をデジカメのモニターを見たときよりも確実に強いものにしてくれているということだった。言葉で説明できるものもあれば説明できないものもあり、非論理的なものを確実に自分の中で強く意識することができる瞬間だったように感じる。

同時に感じたのは論理的なものより、非論理的なもののほうが明らかに強度が強いということである。偶発的に撮ったり、何らかの意思で撮ったものをすべて含めて、プリントするというフィルターを通すことで、自分の中の記憶を繕う部分がごっそりと抜け落ちるのだということが分かった。

撮ることとともに、形として写真を見ることの大切さを改めて理解することができたように思う。

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撮ることで

向こうはここの中にあるのだろうか。それともここが向こうの中にあるのだろうか。

向こうとここの境界は私の中に存在していて、ここが向こうになること、向こうをここにすることどちらも刹那的だ。

私は写真で創りあげたい。向こうとここを自由に行き来する私自身を。

撮ることで自分を創りあげている様な気がするのだ。撮る度に感じる。私の中にあるぼんやりとした輪郭が少しずつはっきりとした線を重ねていることを。

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ここ。向こう。

ここ。向こう。

向こうをここにすることはできるだろうか。

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