小説

大人

ホームレスとは本当にルームレス。ハウスレス。の上に本当のつながりを失ったことをホームレスというのかもしれない。弱者を弱者たらしめているものがありはしないか。

大人は子どもよりも選択支があるから大人というのだと思う。

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HOUSE

穴があれば入りたい。でもその穴が見つからない時、人はどうなってしまうのだろうか。

HOUSE

HOMEではない。もう私にはその場所はない。私にとってHOMEはもう存在しないのかもしれない。ただのHOUSEがそこには広がっていた。穴ではない。私にとって穴はどこにあるのだろうか。誰なのだろうか。

それを探す旅に出ようと思うのだ。いつ穴は閉じてしまったのだろうか。私が埋めてしまったのかもしれない。帰る場所はあっても、居続けていい場所ではないのだ。

見つめよう。穴は再び開くのかもしれない。いつか。やがて…。

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表現の本質

障害を持った人を書きたいと思う。健常者障害者とかいう狭いカテゴリーではない障害という視点で。誰もがこの社会では障害者なのだと思う。

人間関係は使いつくすものなのだろうか。人が人として生きていくことの困難さに向き合うことを表現の本質にしたい。

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自分を揺さぶりつづけていかなければいけない

小説家というのは絶えず自分を揺さぶりつづけていかなければいけない面がある。遠藤周作が言った言葉だ。表現するものにはすべて当てはまるのではないだろうか。

必死に見てもらいたいとか聞いてもらいたいとかそういった表現するときに返ってくるものには貪欲になっていいのではないか。 貪欲になることが表現者ではないだろうか。

伝わらなくとも自分の感性はさらけ出してかまわない。何もかもそこを左右する小説の肉になるかならないかは文体であって文体は書くことと読むことの相互が関連してしか創られない。

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薄い夢

薄い夢を見た。

限りなく薄かった。意味が無いのだ。人々は顔だけが真っ黒に日焼けしていた。夢は物語なのだろうか。すぐに頭から、心から、私から消え去っていく夢を何かに焼き付けなければと思うけれども、どうもできないのだ。

夢を見るために寝るのかもしれない。

小説とは、少し前のことを戻って確認するようなことといったのは川上弘美だったか。小説とは今まであったことを再構成するものなのかもしれない。元通りの形にはならなくとも歪で見られたものでなくともそれは今の私の一部であったり、全体であったりする。

歪でいいのだと思う。いつの時代も残るものは過剰だ。情熱は注ぐものではなくぶちまけるものなのだと思う。こんな視軸を持ってさえすれば、私にも何か創れるだろうか。

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物語は降りてゆく

この光は塊となってゆく。淡い光の管を光のつぶが流れていくのだ。遠い日々はいつの間にか光を先へ先へと送り届ける回路になってしまった。生き際に死はいつも親切なのだ。

高い場所から低い場所へと物語は降りてゆく。

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染まる染まる

ジョイスと小津安二郎に惹かれている。必要ない人など誰もいない。そして今生きているそのことだけで何もかもが満たされるべきなのだということが伝わってくるのだ。魂は一体どこに還るのだろうか。

安部公房の不条理さには心が躍る。松岡正剛の情報編集術は現代のクリエイティブの先端思想を物語っているように思う。

読んで読んで、染まる染まる。

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雑想する、するする抜けていく思考-7

物語とは不条理の塊なのだ。

自分も他者も、誰もかも裏切り続ける物語を、今、必要としている人がいるのではないか。予定調和なものは誰も必要としない。いわゆるそれは収まらない物語だ。文章で思考する必要があるのだ。感情で思考するのではない。物語が躓いたり、転んだり、立ち止まったり、よろめいたり、人間らしさのようなものを見せて動く生命感が必要なのだ。その先にきっと物語は本当の姿を見せてくれる。

小説とは、言葉を層にして社会をうつかたちにするものなのかもしれない。それはつまり小説を通して世界に向かって語るということなのだ。

まかり通っていることの本質と向き合うこと。世の中には他人の作ったルールと自分の作ったルールが存在していて、他人の作ったルールに自分のルールをかぶせることでもしかしたら生きることはずいぶん軽くなるのではないか。しかしかぶせられないものも中にはあって、その一つは時を重ねて積み上げられてきた言葉なのだ。

授業は戦いなのかもしれないなあ。自分の考えを大切にさせる授業。自分の答えを述べさせることが大切なのだ。始業一時間前に特別授業なんかやってみても面白いのかも知れない。授業とは重ねていくものなのだと思う。明日のために今日を重ねていく光の時間が授業なのではないか。子どもたちの明日を明日にすることが教師の役目なのだろうと思う。

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雑想する、するする抜けていく思考-6

必死に見てもらいたいとか聞いてもらいたいとかそういった表現するときに返ってくるものには貪欲になっていいのではないか。

伝わらなくとも自分の感性はさらけ出してかまわない。何もかもそこを左右する小説の肉になるかならないかは文体であって、文体は書くことと読むことの相互が関連してゆく中でしか創りあげられない。

誰かが言っていた。人間関係は使い尽くすものなのだと。

舞台や小説の終わりは幕が閉じた後にやってくる。見ている観客読者によって視点が違うのだから。

上手にものを作るのか、一生懸命ものを作るのか。人を動かすのはそういったところからではないか。

日常とは自分だけの生活なのだ。そしてそれは他者との様々な価値的側面を内包した関わり合いであって、自分が見たい描きたい日常とはきっと意識された生活のことだと思う。

人は取り返しのない何かに気がつくとき結局あきらめたことを口にして自己のなかで起きたことを完結させるのではないか。

傘をさすかささないか迷うその個人個人の感覚は人それぞれ。読書はそういった細かな感覚感性を磨けるもの。

日常は時がふりつもり重なりあって成り立っている。私はそれをひとつひとつ剥がしていきたい。時を剥がしたい。

人とつながるというのは血のつながりとは違う。義理とも異なる。想いの中にあるつながりが生きた生身のつながりを生むのだと思う。私の求めるものそれは歩み寄る関係のつながりだと思う。

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あんこフランスパン

つまり、売り切れてたってことね。だから、こしあんパンを買ってきたと。そういう事ね。

「はい。」

だいたい、夜のタイムサービスを待ってフランスパンの中にあんこが入っているというパンを、買ってこい。という佐竹さんの注文を聞いたときは、なんとまあそんな見たことも聞いたこともないパンに執着するくらいなら自分で買いに行けばいいのに。と思った。

まあ、まあ、半分正解しているから、よしとして。明日もお願い。必ずね。

半分正解の意味は中味があんこだからなのか。それともフランスパンではないけれども、パンだから半分正解なのか。佐竹さんの半分は何を持って半分なのか私にはさっぱりだ。佐竹さんに雇われてこのギャラリーで働くようになってから、もう半年は経つけれども、さっぱり佐竹さんのことを半分も知らない(いや、十分の一知っているかさえあやしい。)私にとって、佐竹さんのいう半分を意味を、ここで雇われている間に知ることは無理だと思う。

「明日も5時以降のタイムサービスを狙って行けば良いんですか。」

そう。つまり、買おうと思ったらダメなわけ。スーパーに行って、たまたまありました。食べるものを選んでいる時間も無いし、だから買いました。っていう意識が大切なの。わかる?

佐竹さんの言うことはいつも哲学めいていて私にはさっぱりだ。ある有名な落語家が言っていた「笑わせようと思ったらダメ。」という言葉を思い出す。この言葉を引用して佐竹さんの論理を組み合わせるとつまり、買おうと思ったらダメ。ということになる。佐竹さんは今日も不思議でたまらない。

今日は、もう上がっていいよ。

明日は売っているのだろうか。あんこフランスパン。会ったとき私はどんな顔をして会えばいいのだろうか。小学校の頃、転校して以来会ったことのない友人に再会したときのような顔でもしてみよう。パンもそんな顔で私が会ったらどんな顔になるだろうか。びっくりしてあんこがクリームに変わらないか心配になる。まあ、その時はその時で佐竹さんにどれくらい正解なのか訊いてみたいとも思うけれど。

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