篠田桃紅

篠田桃紅に少し興味を持っている。書壇とは全く別の動きをする中で国際的な評価を得ている書家ということにだ。日本では正当な評価といったものが必ずしもされてこなかった作家である。書家というカテゴリーではなく現代美術作家としてのカテゴリーとしてのほうが正しいのかもしれない。現代美術の中に書を組み込むということに成功した作家であるといった認識が私の中にある。

ちょっと研究してみようかな。

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西川春洞

西川春洞の楷書にとても魅力を感じている。

古典のエキスが詰まっているのである。それもあからさまに。西川春洞の鷹栖邨墾田碑を直接見てしまったらもう離れられないと思っている。直接見に行く機会を作らなければならないと思っているけれども近いうちには無理だなぁと思っている。今日も拓本を眺めてニヤニヤしていよう。

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鉄斎

富岡鉄斎。

よくわからないんだよなぁ。鉄斎の魅力。鉄斎とは一体なんなのだろうか。最後の文人と呼ばれた鉄斎。今よりももっと潜らないと鉄斎は梯子を下ろしてはくれないんだろうなぁ。

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私の戯れ言

私はライバルとは思ってはいないけれど、ライバルだと思われている友人と一緒に個展をやりたいと思っている。彼の方は私の戯れ言程度にしか受け取っていないみたいだけれど。

二人っきりでなくても、もっと人を巻き込んでまとまって何かをするということで、お互い新しい何かを生み出すいいきっかけになるのでは。と思っている。

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気になる書家

気になる書家がいる。考え方。生き方がとても気になるのだ。自分とは切っても切れない関係だと思っている。去年お亡くなりになられた。私は二度しかお話したことがない。それも高校生の時。ただ人づてに先生のお話を聞いたりする中で考えることがたくさんあった。先生の書を見る度に書とは何かを自分の中で問うこともあった。近いうちに先生について、先生の書について考えている事をまとめたりして形に出来たらと思っている。

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教科書

自分だけの書道教科書を創ることはできないか。理想の書道教科書のようなものはできないだろうか。

検定教科書の持っている限界性のようなものを最近感じることがある。作り手と売り手の考えが使う側の方向を見定めているのか疑問を感じるときがある。

教科書を見ていると、内容量の限界をもっと挙げなければならないのではないかとも思うし、同時に、教科書のサイズにももっとこだわって良いのではないか。書壇の枠組みを超えた考えの中で、書道教育というものを真剣に考えてゆくとき何か見えるものがある気がするのである。

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余白の物語

書は余白の物語なのだ。書かれているものではなく、書かれていないところが重要なのだ。書かれているもののなかにある白も大切な要素である。ものとは線であると同時に思考・思想である。作者が持つであろう哲学である。自己の中に内在している思考・思想の響きこそが、線・空間・となって表現を高みへと推し進めるのではないか。書は自己史の物語と言えるのではないか。

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書道ガールズ

職場の先輩と書道ガールズを見に行く。感動した!。。。

否定的な眼で見れば言いたいことはたくさんあるけれど、多くの人が持つであろう書道に対する先入観に対して、何らかの揺さぶりをかけることが出来る映画だなと感じた。DVDで見ればいいやなんて思っていたけれど、見ている最中からDVDで見ると後悔するだろうなと思った。言いたいことを言えば、役者の方々の努力は勿論、この映画に関わった全ての人に感謝したくなるような映画だったのだ。この映画を通して書道ガールズだけではなく、書道ボーイズにも頑張って欲しいものだなぁ。私は個人的に、桜庭ななみさんのキレ顔と坂口涼太郎さんの笑顔に独特の存在感を感じ、興味をもった。

浴びるように墨と戯れた日々は一体どこに行ってしまったのだろう。

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身体化

技術が身体化されていると感じる書に出会うことはなかなか出来ないと思う。

自分の技術はどこまで身体化されているだろうか、いわゆる身体から出たもので書かれているだろうかということである。

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